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| ラベル1 |
| 300年の歴史 |
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寒天を製造する方法の発見された年代は万岩元年、或は明暦年間、また或は天保4年とも伝えられる。
今を去る、300余年の昔、徳川四代将軍家綱公の時代のある冬、山城の国伏見の駅御駕籠町にある美濃屋太左衛門方で、江戸参勤の途にある、薩摩藩主島津候の、御休泊の栄に浴した事があった。
同家はこの上もなき栄誉としてあらゆる饗応をなしたが、その中にテングサを煮て作ったトコロ天料理があった。
その際残ったトコロ天の−部を地上に棄て置いたところ、時恰も厳冬の候とて夜間に至りトコロ天凍結し、日中融解し自然に乾燥して干物となった。
太左衛門は数日後に至ってこれを発見、奇異に思い試みに、これを水と共に煮たるに溶解し放置冷却すれば、トコロ天より白く美しく、さらにこれには海草臭がない美味しいトコロ天となる事を知り、これが寒天製造法発見の動機で、その後種々苦心研究の末寒天の製造法を発見するに至ったものと伝えられる。
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| ラベル2 |
| 寒天の由来 |
寒天業が摂津の国へ伝播したのは天明年間(或は明和年間)で、大阪府島上郡原村(現在の高槻市)美濃国加納藩主永井家の領地で宮田半兵衛(現戸主宮田勝三氏6代の祖)が、この土地が地勢、気候、水質等寒天製造の条件に最も適している事を発見し、原藻の配合や製造法に工夫を凝して立派な寒天を製造する様になった。
而して寒冷法の遺産は高槻市字原に清水寒天水産加工業協同組合を作り、単位組合としては全国一で、寒天に功績を残したる創始者、宮田半兵衛の碑文は今も高槻市原字城山に建ってあり、その変遷に転々感無量のものがある。
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